直方鉄工協同組合
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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
明治篇:第四節/明治の鉄工場・製鉄所
1.「飯野瀧造日記」は語る
「飯野瀧造日記」
「飯野瀧造日記」

飯野瀧造日記とは
 明治三十年代の鉄工場の様子を知るための貴重な資料として、初代飯野鉄工場主の飯野瀧造氏が書いた日記が残っています。
 飯野瀧造氏は明治元年に直方に生まれ、少年の頃から、町の鉄工場で見習工として働き、青年時代には上京して、石川島造船所に入り技術を修得しました。明治二十九年、兄又二氏が死亡したため、石川島を退職して帰郷、家を継ぎ、自己の技術を生かすために、鉄工場の創立を思い立ち、明治三十年飯野鉄工場を創立しました。その後大正五年には直方鉄工業組合の初代組合長を務めるなど直方鉄工界の重鎮として活躍しましたが、鉄工場創立を思い立った明治三十年一月から明治三十六年迄、日記を付けつづけました。これが「飯野瀧造日記」と呼ばれるもので、鉄工所の創設から鋳物場の増築、従業員のこと、製品のこと、取引先のことなどが、主観を排した几帳面な筆づかいで記述されており、明治期の鉄工場の様子を生々と伝える文書となっています。

鉄工場の開設
 日記を追って鉄工場の出来あがる様子を見ていきましょう。明治三十年三月から。

<三月二十二日 柴田方ニ一寸寄。昼食ヲ喰ウ。横山来テ居ル。博多ニ八尺旋盤アルト云ニ付、夫ヲ買咄(かうはなし)ニスル。全人ヲ聞合ニ遣ル>
<三月二十四日 朝七時頃横山博多ヨリ帰リタトテ来ル。旋盤ハ君津ニ売レタルニ付ナイト云来ル>
<三月三十一日 楠本方ニ、タライバン(旋盤のこと)ノ事ヲ聞ニ行。馬関(下関のこと)ニ有ト云ウ>
<四月一日 楠本ヨリ、タライバンノ事ニ付手紙来ル。直ニ行>

 旋盤の入手に苦心している様子が伺えます。
 四月十九日には鉄工場の上棟式がありました。機械が入るまで、福島鉄工場で借りることにしています。

<四月二十七日 午後福島ニ行。柴田ト一寸咄スル。楠本方行。福島居ルニ付、シカル盤(平削盤)時々借レル様ニ咄スル>

 次々に内部の整備がされます。

<五月三日 中村(洋金物店)ニ行、道具ヲ買ウ>
<五月八日 午前仕上台ヲ作ル>
<五月十一日 万力ヲ取付ル>
<五月十二日 楠本方ニ一寸寄リ、金拾五円預ケル。吹子(ふいご)買入ノ為>

 つづいて機械類が入ってきました。

<五月十三日 中村ニテ、ホール盤(穴あけ機)壱個買ウ。楠本方ニ寄ル。吹子ナイト云テ金ヲ戻ス。夜、山部、新介方ニ行、吹子ノ咄スル>
<五月十四日 新介来ル。吹子ハナイト云。頓野ニ有ト云。吹子頓野ニアルト云ニ付八時頃ヨリ行。下頓野ヨリ出口迄行。ナイ。夜町行。柴田方ニ行。帰リニ中村工寄。タライ(旋盤のこと)ヲ買ウ様ニスル>
<五月十五日 中村ニ来リ、タライヲ調ベテ買取。十七銀行ヨリ四百六十三円七十銭請取リ、中村ニ、三百拾円拂ウ。夫ヨリ安太郎方ニ行、吹子ノ相談スル。夜、楠本方ニ行、金持注文スル。中村ニ一寸寄リ、へーハ(ぺーパー=紙やすり)買ウ>
<五月十六日 十尺旋盤着場。九時頃タライ盤持テ来ル。午後サイヲ落、取立ニ樹ル>
<五月十七日 楠本方ニ行。夫ヨリ同道ニテ中村ノフリ車ヲ見ニ行。百七十斤バカリシカナイ。夫ヨリ楠本ハ稲松方ニ振車ノ相談ニ行。小生ハ楠本方ニ行テ待ツ。十二時相談出来タト云テ手紙クル。振車メタルヲ持テ福島ニ来テ、吹子口、タライハンドルシャフトーヲ作テ貰ウ。六時頃出来上ル>
<五月十八日 吹子金床ヲ据付。タライヲ仕直シニ掛>
<五月二十日 振車据付皮掛スル>
<五月二十二日 バイト類ヲ作リ、午后ヘン穴ヲクル。ヘンヲ引ク>
<五月二十四日 午後メタル百七十五個持来ル>

 いよいよ仕事始めです。

<五月二十五日 本日旋盤試運転、武内仕事ニ来ル。タライヲ少シ直サセテ、心棒(回転軸) 四本剃(けず)ル>

 五月二十七日にはボール盤の取付も終わり、本格的な仕事が始まりました。

鋳物工場の増設
 旋盤などを使用して行なう仕上工場につづいて、鋳物工場が設置されました。鋳物工場の棟上は、明治三十年八月に行なわれました。

<八月二十五日 建方来ル。土立モ来ル。十二時ニ棟上ニナル。二時頃餅ヲ投ル>

 鋳物工場は火を使用するので、警察の許可が必要でした。

<八月二十七日 警察ニ一寸寄リ、鋳物場開業届ノ事ヲ聞ク。図面仕様書ヲ添テ届ケト云>
<八月二十八日 警察ノ届ヲ書ク>
<八月三十日 九時半頃巡査鋳物場見ニ来ル。明日許可書渡ニ付コイト云テ帰ル>
<八月三十一日 八時頃ヨリ警察ニ許可書貰ニ行>

 警察の許可がおりたので、いよいよ鋳物場の内部設備が始まりました。

<九月三日 今日ヨリ野中玉造仕事来ル。十一時ヨリ火作、三人鋳物場道具ヲ作ル>

 九月四日は鋳物場の瓦葺が終わりました。九月十九日は鋳物場の振車の取付け。九月二十七日が初吹(はじめて鋳物をする)でした。鋳物の仕事をすることを<吹>と呼んでいたのです。初吹のあと、お客をしています。

<九月二十七日 初吹。コシキ方(鋳物職人)一人来ル。三時半頃吹始メ都合能ク五時半ニ止ム。職工皆、隣家九軒丈客スル。都合十一人>

 鋳物を始めたことから、仕事も次第に多くなりました。
 十一月二日には、八尺旋盤が増設されました。十一月五日には新設されたシカル盤の試運転が行なわれました。
 その後の工場の発展について上刎忠氏の調査では、「三十二年四月に従来の工場建物を鋳物工場とし、別に工作機器を集めた仕上げ工場を建てました。それとともに事務所を建てて、製造面と営業面の管理体制を整えました。
 仕上げ工場が完備すると、工作機器運転の効率を上げるため、その動力を人力より蒸気へと切り替えました。このため汽缶(ボイラー)を導入して汽缶場を完成し、翌三十三年四月に本格的な運転を開始しました。
 それまで工作機器の運転は徒弟(年期見習い)が力を振りしぼって機器を動かしていたので、これより飯野鉄工場では徒弟が人的動力より解放されることになりました。
 同年十月には十六尺(四・八五メートル)のダライ盤を設置。当時は鍛造や鋳造が鉄工業の中心だったから、この大旋盤は当時としては筑豊で最大のものであったろうと思われます。
 三十六年五月には、一階が木型工場、二階が年期徒弟の居所(寮)の建物を完成させました。
 とあり、工場の拡張ぶりが伺えます。
 なお、日記の各年の終わりに、その年鋳物の仕事をした回数が書いてあり、次のとおりになっています。
明治三十年  鋳吹 二十七回 明治三十一年 鋳吹 八十一回
 〃 三十二年 鋳吹 八十八回  〃 三十三年 鋳吹 八十五回
 〃 三十四年 鋳吹 壱百回   〃 三十五年 鋳吹 八十五回

吹子祭り
 古来、鍛冶屋(かじや)、鋳物師、石工など鞴(ふいご)を使う職人は、旧暦十一月八日に鞴祭という行事を行なつてきました。一日中仕事を休み、鞴を清めて、しめなわを張り、御酒、赤飯をそなえて祭るものです。
 「飯野瀧造日記」にも、明治三十年十二月一日に行なった吹子祭りのことが記録されています。
 まず、前日、

<十一月三十日 柴田来ル。吹子祭リノ事ヲ咄(はなし)合。八時半頃、青柳ヲ中村ノ所ニ、祭リ都合ヲ言テ遣ル。一時頃、永野屋肴(さかな)見ニ行>

 仕事関係者に吹子祭のことを伝え、魚を見に行ったりして用意をしています。当日は、

<十二月一日 朝、新介(従業員)仕事ニ来ル。吹子祭リ用意。柴田、川上兄弟二人、柴田家内加勢ニ来ル。柴田、赤松ノ進物肴(さかな)持来ル。四円九十銭ト云(いう)。有村先生(飯野家の主治医)ニ案内ニ行。午後三時頃ヨリ客来ル。七時半頃ヨリ散會。夫(それ)ヨリ、中村、柴田、上川、武内、小(飯野瀧造氏は日記の中で自分のことを小と書いています。小生という意味でしょうか)、上野ト一柳(料亭)ニ行。十一時頃帰ル>

 二次会に一柳という料亭に行った事がわかります。
 また、明治三十四年の一月二日にも、吹子祭が行なわれ、

<一月二日 朝ヨリ客ノ用意スル。一時頃ヨリ始ムル。加勢人ハ、タメ、サヨ、フミ、角太郎。四時頃荒方(あらかた)片付。柴田ハ四時頃、上川ハ五時頃、中村氏ハ五時半頃、六時半頃皆帰ル。角太郎ハ十時頃迄咄スル。客四十人計(ばか)リ>

 という、盛大さでした。

鉄工場の製品
 当時の代表的な鉄工場と考えられる飯野鉄工場で、どの様なものを造っていたか、上刎忠氏の調査では、
 「まずダライ盤を導入、先輩鉄工所製品のボールトやシャフトの仕上げから始まった。工作機械の充実とともに、トロッコ車輪、同用真鍮(しんちゅう)メタルの仕上げ。工場が完備するにつれて製品も作製するようになった。
 トロッコ車輪、同用真鍮メタルの製作。蒸気式揚水ポンプ(汽缶を除く)、同式捲揚機、精米機などとその部品の製作。そしてこれらの機器の加工と修繕。製品の主力はトロッコ車輪と真鍮メタルで、これを納入先の記録から推定すると、炭坑の炭車用と土木運搬車用であった。炭坑は隆盛期に向かい、土木工事も鉄道拡張など活発で、需要が盛んだったことがわかる。
 日記の記録によると、同鉄工場の当時の製品で最大なものは、炭鉱用揚水ポンプ(汽缶を除く)で、内筒の直径が十八インチ(○・四六メートル)のものでした」と、いうことです。

取引先の拡大
 三十年四月十九日が工場の上棟式で、五月十六日には十尺旋盤が据付けられ、五月二十五日が旋盤の試運転。九月には鋳物場も出来て、九月二十七日が鋳物の初吹。
 工場が整備されるにつれて仕事も多くなり、取引先も拡がっていきました。以下、日記から、それをひろってみましょう。
 はじめの頃は御徳炭坑が出てきます。

<八月二十五日 御徳炭坑二・六吋ヒストンロート(ピストン・ロット)、アフラサシ(油さし)、六分ナットニ十、五分十渡ス>
<八月二十九日 御徳坑ヨリ、ハイフ(パイプ)持来ル。フルイトルニ合セテ子(ね)ジ切ル。三時頃御徳坑ヨリ夫(人夫)来ル。ヘントフルイトル修繕、拾弐吋ヘエル一組渡ス>

 つづいて、高山坑。

<九月七日 高山坑ヨリ十吋ヒストン持来ル>
<九月十日 御徳高山坑ヨリ拾吋ヒストン取ニ来ル>

 さらに、納入先拡大のため飯塚の忠隈炭坑まで挨拶に行き、桂川炭坑まで足をのばしています。

<九月二十八日 十二時ヨリ嘉穂行ヲスル。三十四分発ニテ飯塚ニ下リ、夫ヨリ忠隈炭坑ニ行。宮島(友人か?)坑内ニ入テ居ル。四時半頃迄待ツ>
<九月三十日 飯塚ニ出ル。飯塚ニテフトフ(ぶどう)酒三本買イ、忠隈ノ宮島方ニ行。仕事ノ咄シテ、十一時ヨリ全家ヲ出テ、三十七分発車ニテ臼(ママ)井ニ行。夫ヨリ桂川炭坑ニ行。緒方(友人か?)ハ居ラヌ。
大町ニ会ウ。又二郎方ニ行、昼飯ヲ食ウ。多七来テイル。三時半頃ヨリ大町トアッテ北坑ニ行。職長居ラヌ>

 また、

<十月十日 赤池炭坑ニ行、山根ニ會、仕事ノ上ニ付頼ム>
<十月十一日 九時四十分ノ氣(ママ)車ニテ忠隈ニ行、十一時忠隈ニ届ク、宮島方ニテ酒呑ミ昼飯ヲ喰ウ。夫ヨリ宮島ト、技手及用度ノ所ニ行>
<十月十八日 朝一番氣車ニテ忠隈坑ニ行。宮島方ニテ昼飯ヲ喰ヒ、二時ノ氣車ニテ碓井(うすい)ニ行、桂川炭坑ニ行。緒方方ニ四時半頃行。清水来ル。色々咄スル。同家二泊ル。忠隈ヨリ、スヒントル(スピンドル)ノ図ヲ持テ帰ル>
<十月十九日 八時頃売勘場ヲ出ル。職場ニ行、職長ニ会ヒ、色々頼ミ置キ、十時二十分頃ヨリ出ル。夫ヨリ笹原炭坑ニ行、斉藤ニ会イ、同道ニテ事務所ニ行、値段等ヲ云イ置ク。中村氏(主任か)留守ニ付注文ハ知ラント云。夫ヨリ喜平方ニ行、昼飯ヲ喰ウ。諸事頼ミ置。二時二十分ノ氣車ニテ帰ル>

 というふうに、販路拡張のため、連日、知人、友人など、伝(つて)にたよって東奔西走している様子が記録されています。
 そしてその効果も徐々にあらわれてきます。

<十一月一日 十二時頃、笹原(炭坑)ヨリ中野、斉藤来ル。酒肴ニテ一寸昼飯ヲ出ス。釜ノ附属品ヲ注文スル。ホンフ(ポンプ)手付金トシテ三十五円受取ル。中村氏(笹原炭坑)一寸来ル。金五十円受取ル。中野、斉藤三時頃帰ル。積書(見積書)ハ二、三日内二送ル様ニスル>

 そのほか、土木関係の大手業者である間組からの注文が来ています。

<十一月七日 間組車輪五十台分請合>
<十二月二日 間組ヨリ車輪ノ内金二百円受取ル>
<十二月三日 間組車輪大急ニナル。村山来ル。間組車輪五十台十五日間ニ受ル。鋳物内ニテ吹様咄スル>
<十二月十八日 間組車輪ヲ出ス>

 飯野鉄工場の基礎が次第に固まって来ていることがわかります。
 その後、販路は筑豊一円に及びましたが、日記にあがっているものをあげてみますと、
【鞍手郡】 菅牟田坑、海軍坑、勝野炭坑、赤地坑、藤棚坑、日焼坑、本洞坑、新入第一坑、高山坑
【遠賀郡】 深坂坑、福好坑
【嘉穂郡】 忠隈坑、平山坑、碓井坑、笹原坑、西郷坑、筑紫坑、下山田坑、潤野坑、大谷坑、桂川炭坑
【田川郡】 赤池坑、金田炭坑、糸田坑、香春坑、豊国坑
などで、その他にも、
黒田坑、大川坑、楽市坑、染坂坑、小松坑、宮野浦坑、三六坑
などの名前が見られます。

従業員
 当時の飯野鉄工場の従業員について、日記を調べてみますと、専門の職人については、鋳物場が完成し、初吹(はじめて鋳物をすること)をした三十年九月二十七日に、

<九月二十七日 コシキ方(鋳物職人)一人来ル。タライシ(旋盤職人) 一人来ル。三時半頃吹始メ>

 とあり、鋳物職人がコシキ方、旋盤職人がダライ師と呼ばれ、各一名ずつ雇われていたことがわかります。
 一般従業員は二種類あって、一つは、職人に近いもので、仕事もすれば外交もするといったタイプの雇人で、知人、親族のものも居たようです。
 もう一つは、年期と呼ばれるもので、前渡金をもらい一定の期間、住込または通勤をして働く契約を結んだ従業員です。
 一般従業員は、常時五〜八人くらいいた模様で、例えば、三十年七月頃は、

<七月七日 武内本日ヨリ来ル。進藤休ミ。治右衛門ハ畑仕事。新介材木ヲ三車持来ル>
<七月十日 本日ヨリ源介仕事ニ来ル>
<七月十八日 山崎休ム、保ニ廻サセテタライ使ウ>
<七月二十日 六時頃林太郎来テ、太八ヲタライ盤廻ニ使イ呉ト云。使ウ咄ニスル>

 とあり、武内、進藤、治右衛門、新介、源介、山崎、保、太八など八人の従業員がいたことがわかります。
 その頃の従業員の条件は、一例として次のようなものがあります。

<八月三日 八時半頃武内来テ貝島春吉ヲ見習ニ入テ呉ト云テ来ル。弁当持ニテ一ケ年半、初六月ハニ十銭、后一年内三十銭迄卜云テ遣ル>

 また、日記の巻末に次のような年季のまとめがしてあります。

契約年月日 契約期間 証書又は証人 年季氏名 住 所 満期
三十年五月十五日     清水 保    
三十年十一月二十五日 四ヶ年   篠田 栄太郎 外町 明治三十四年十二月二十九日
満期
三十一年五月十三日 三ヶ年   青柳 勇次郎 新入村 三十四年八月二十五日
満期
三十二年六月十四日 五ヶ年 年季証書入
清水□□証人
杉原 三吉 嘉穂郡大谷村庄司
杉原梅吉 男
 
三十二年十二月八日 病気ニテ三十四年八月四日ヨリ
十一月二十七日迄休
三ヶ年半 更ニ七ヶ月礼ヲスル
  柴田 昌吉 遠賀郡水巻村猪熊
柴田仁三郎 男
三十七年二月十五日
満期
三十四年三月十九日 四ヶ年 年季証書入
辰伸証人
村田 好平 頓野村  
三十四年四月二十四日 四ヶ年 五月三日
年期証書入
花村 宗三郎 笠松村大字立岩  
三十五年三月十二日 五ヶ年 竹次郎証人 渡辺 良作 下界村字猿田
作七 男
 
三十五年五月十七日 五ヶ年 証人
上野庄平
守田 正治 田川郡神田村大字金田
守田兼松 男
 
三十五年五月二十四日 五ヶ年 証人
助五郎
貞金 金次 御徳村  
三十五年七月七日   忠隈坑
山口義雄氏
ヨリ口入
島村 敏次郎    
三十七年四月七日 四ヶ年半 直方古町
柴田茂助証人
柴田 仲吉 遠賀郡芦屋町
柴田□七男当年十八才
 
 これによって、年季の期間は、ほぼ四、五年であったこと、証人を必要とし、場合によっては年季証書を入れたこと、年季の出身地は筑豊一円にまたがっていたことなどを知ることができます。

郷土資料としての日記
 「飯野瀧造日記」には、鉄工場関係の記述のほか、天候について(降雪、降雨による洪水や日食、月食など)の記述、社会の出来事について(炭鉱事故、国会議員その他の選挙、演習に来た兵隊の宿泊、火事、その他年中行事、冠婚葬祭など)の記述、農事について(米価、稲作、野菜の出来など)の記述が、具体的に見られ、郷土史や民俗学研究の立場からも貴重な資料ということができます。
 一例として、明治三十年の兵隊宿泊の記録を挙げてみましょう。

<十一月九日 朝八時頃ヨリ兵通ル。四時頃兵十四人来ル泊ル>
<十一月十日 鋳物師一人来ル。兵ハ休日ニテ内ニ居ル。広島歩兵第十一聯隊第四中隊陸軍歩兵軍曹 三浦捨次郎>
<十一月十一日 兵卒九時三十分ニ出発スル。(夜)九時頃又町大ニ軍隊来リ泊ル>
<十一月十二日 兵卒通ル>
<十一月十三日 林太郎役場ヨリ軍人宿舎料五円四銭取テ来テ遣ル>
(軍人十四人分なので一人三十六銭となる)
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