直方鉄工協同組合
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ある町工場の立志伝「明治から今日まで」
100周年記念誌より(発行:2000年11月)
公害の始まり
 ベルトハンマー等据えるについては、当時、工場法で設置許可を必要とした。昭和12年「日華事変」、13年「国家総動員法」が成立、又「石炭配給統制規則」が出され、直方の鉄工界も時代の流れに沿っており、小さいながらも私の工場も割にスムースに許可がおりた。
 しかし、又これが苦労の始まりとなってきた。裁判所、学校等も近く住宅のド真中で朝早からドスン・ドスンやり出したので近所の人たちが工場を覗きにくる始末。幾多の苦情、悶着が相次いだが、時勢に押されてか、ウヤムヤにそのまま通してきた。自宅のすぐ隣りが第一警防団(現在、消防分団)であった。私も入団していて、戦後分団長を2年程つとめた。因みに、副分団長は村井源久さんであった。分団は常時は空家で、その点は助かった。
直方の重油炉第一号
現在の重油炉
現在の重油炉

 「ドスン ドスン」
新町の街並みにわが社のハンマーの音がこだましている、昭和31年春直方鉄工協同組合 石橋清一理事長以下組合員一同は、恒例の工場見学旅行に大阪地方へ出かけた。
 大阪の工場街を徒歩で、予め定められた工場を見て回って次の工場に移動する途中、ボアーというかなりの大きな音と、ハンマーの音を耳にした。他の人達は気にもとめていない様子であったが、耳の不自由にも拘わらず私には商売柄か確かに聞こえた。
 鍛造工場は予定のコースには入ってなかったので、同行していた田中信君と語らい、石橋理事長に許しを乞い、二人は団体行動から離れ別行動をとった。
 早速、そこの鍛造工場の主人に面会し、工場を見せてもらった。そこでまず目に入ったのは初めて見る「重油炉」。私達二人は一瞬異様な興奮を感じた。エアーで霧状にした油が炉の中に吹きつけられ「ゴーゴー」と力強く音をたてて金を焼いている。その状態をあっけにとられて見ていた。そしてぞくぞくする喜びが全身を駆け巡ってきた。
研一氏(S50年)
研一氏(S50年)

 「しめた!」
 「こりゃあー、女でも焼っきるぞ!」
二人は互いに顔を見合わせ微笑んだ。
 直方ではその当時、どこでも石炭で金を焼いていた。地面に穴を堀り、下からファンで風を吹き上げ、石炭を燃やして金を焼く。まさに原始的方法である。しかも重労働で、体力並びに相当の技術とキャリアを必要とする。金焼き職人は貴重な存在であった。折からの人手不足時代に斯かる人材を求めることは、我々にとって大きな悩みの一つであった。
 私と田中は躊躇することなく、そこの主人に築炉屋を紹介して欲しいと頼んだ。やっと小林さんという老人を探しだし直方に一週間程度来てもらう様頼んだものである。
 やがて、直方にこられた小林さんに
 「誰か、レンガ職人はいませんか」と申し込まれ、アレコレ探すうちに中間の森田さんというレンガ職人を見つけた。(森田さんは後の森田築炉工場主)森田さんは、小林さんの指示通り、何日かかかって炉を築き上げた。これが直方に於ける重油炉(バッチ炉)の第1号である。
 この年の組合の工場見学旅行が直方鍛造業界、ひいては直方鉄工協同組合の今日の発展に大きく寄与したと思っている。故石橋清一理事長に今でも深く感謝申し上げている次第である。
 因みに、最近安い重油を使ったバッチ炉から、セラミック・ファイバーによる加熱室と予熱室を併設した超省エネの新炉が開発され直方の各鍛造工場はそれに殆ど切り替えた。
 石炭焼きに代わる重油炉を直方でトップを切って導入したが、これが又新たな悩みの種となった。私は、朝6時頃火入れをしていたが、明け方の静寂を破って「ボアー」というバーナーの音、8時になるとハンマーがドスン、ドスンとやり出す。実に身を切る思いの毎日であった。
工場移転の決意
 忘れもしない昭和36年2月15日、直方市役所で直方鉄工総合診断に基づく講演会が催され、私はそれに出席した。その内容は忘れたが、何か異様な興奮を覚え、ひらめきがあった。工場を移転するというのである。自宅と工場の北隣りは警防団があり、警防団自身の移転の話もあっていた。用地は旧直南発展会の名義になっていて、発展会のメンバーの一人、飯野憲一郎さん等の勧めで、私が買い取る話しが九分九厘できていた。その用地を挟んで北側には旧許斐真鍮工場(現車庫)その北に桑原整備工場等があり、それ等は事前に私が買い取っていた。それで、挟まれた消防用地を買えば、レイアウトできると思っていたのである。
 工場を移転するなんて高根の花で、とても手の届かないものとばかり思っていた時である。
 裁判所を誘致した直南発展会のメンバーの大方は承諾が済んでいたが、唯一人K氏だけ話がつかず、私は何度もお伺いしたが言を左右して、話が延び延びになっていた矢先の講演会であった。結果的には、今から考えるとそれが幸いした。スムースに買ってしまっていたら、現在の工場は有り得ないはずであった。
 講演会がすんで、午後は直方歯車の移転地植木で地鎮祭が行われ、私は招かれて出席した。佐田氏の勧めで、この付近に未だ工場用地があるとのことで、早速敷地を視察し、所有者の友原窯業の主人に面会した。先方も処分したい考えだったようで、地質ボーリングをこちらでやる条件でよろしくお願いします。と言って帰ってきたその後、飯野さんに骨折っていただいて気の毒だったが、勇気を出して警防団の買収中止のおことわりの電話をした。
 「よし、植木に行こう」
私はその夜は眠れなかった。
 昭和36年、植木に工場移転、それには先ずボーリングで地質を調べねばならぬので早速福岡の大森ポンプ店に依頼した。
 それから2〜3日たって私は市役所を訪ね、川原助役に面会、事情を話して植木地区の用途地図を見せてもらったところ、植木が準工場地帯として都市計画になっていることを知った。一寸ひっかかった。
 丁度その頃である。中小企業団地育成補助金の貸付けを具体化する中小企業振興資金助成金改正案が成立する等、工場団地問題が大きくクローズアップされだしてきた。  同年2月23日に、私は午前中、地質調査ボーリングをさせている現場(植木)視察した後、午後からの組合における団地問題懇談会に出席した。私としては重大な局面に対局しているような感じで思い悩んでいた。
 単独か?
 団地か?
 だがその後2〜3日してボーリング屋から地質調査書を受け取ったが、その土地が地盤軟弱でハンマーの基礎工事に不適当のことで、一応植木行きはあきらめざるを得なかった。団地に心が大きく動いたのである。
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