直方鉄工協同組合
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ある町工場の立志伝「明治から今日まで」
100周年記念誌より(発行:2000年11月)
フイゴふきからの解放
今も大切に保管されているフイゴ
今も大切に保管されているフイゴ

 怪我を契機に柴田鉄工所を止めて、自分の工場に帰ったが、私の工場、否、「鍛冶屋」といった方がぴったりの仕事場は未だフイゴであった。モーターが欲しいと日夜悩んだことである。
 「吉ちゃん、金はどうにか工面するけん、モーターば据えないや」飯野さんは、私のフイゴふきを見かねての進言である。
 父は飯野さんの世話で頼母子講を作り、金を工面された。私は早速古物屋をさがしてまわり、駅前の増原機械店だったと思う。炭坑の木製排風機と、二馬力モーター、その他を買った。モーターと排風機をベルト掛けしてつないで地を堀りパイプをはわし風を出した。
吉太郎氏(63歳)左
吉太郎氏(63歳)左

 やっと、これでフイゴふきから解放された。この喜びは一生忘れることができない。考えてみれば、これが弊社の合理化計画の第一歩であった。
 今でも思うのだが、どうしてウチの工場だけこんなに立ち遅れていたんだろう、不思議でならない。田才のスチームハンマー、小野原のエアーハンマー、柴田のベルトハンマー、大森のハンマー、猿渡のハンマー、若林のボールト工場等フイゴでやっている工場は一軒もない。
 昭和9年、結婚と同時に工場は私たちにまかされた。この頃から日本は風雲急を告げ、仕事も増えてきた。従業員10人のうち、住み込み職人、住み込み年期奉公人が半数で、朝・昼・夜の3食の賄い、合間に勤怠簿、金の出し入れ等を節子は一人でやってくれたおかげで、私は仕事の方に没頭して行くことができた。
友であり ライバルの出現
 フイゴの話しばかりになるようだけれども、私の工場近く、日若酒屋の前にもう一軒フイゴ工場があった。中島鍛冶屋である。
田中信氏(右)と研一氏(左)
田中信氏(右)と研一氏(左)

 その中島さんは、父の弟子、兄弟で大酒呑みで亡くなられたので、休業してたらしいのを、或る人がその工場を買収された。株式会社田中信鉄工所のルーツである。
 その頃から、炭坑の仕事の内容が変わり始め、私の工場では炭車金物からコンベヤー、リンクチェン作りが多くなった。厚み6〜9mmの38mm巾の平鉄を、長さ120mmに切り両端を円にしなければならない。そして、穴を開けカラーを入れて鋲でかしめつけてチェーンを作る。問題はそのリンク切断である。彼(田中信)の工場もリンクチェーンを始めていたが、或る日、突如剪断機?を据えて、私の工場で3工程でやっていたのを1工程でプレスで打ち抜いていた。工員も素人で馬車引きをやめた人だった。私は実のところビックリして慌てた。
 私は早速大阪の秋修ポンプ店という機械店を訪れた。そして、リンクを両切りできるように切断機を改造してもらい直方に送った。据付けを済まし中村という菓子店の職人を雇い、切断を教えて作業を開始したものだ。
 爾来、40有余年彼(田中信)との交友は今も続くが、良い意味でのよきライバルである。
車
 「英ちゃん、おしよんな」
 「うん、押しよるバイ」
失恋の痛手が脳にきて、少し頭が可笑しくなったとかで、私にあづけられた「井上の英ちゃん」の後押しで、今日も車力を引いて舗装のない道をでてゆく。
 いつも考え込んでいる様子で車力に手を置いただけの後押しには閉口して、何度も後を振り向いて叱ったものだ。昭和10年頃の私の姿である。
 駅前の田才鉄工所の下請けで納品、支給材取りは車力であった。後に馬車になり、今のようにトラックなんて思いもよらない時代である。
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