直方鉄工協同組合
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ある町工場の立志伝「明治から今日まで」
100周年記念誌より(発行:2000年11月)
第1次世界大戦後の恐慌の波・・・米一俵
 そんなこんなで小学校を卒業後、大正11年鞍中に6年2組からは9名受験して全員パスした。そして私は入学したが、第1次世界大戦後の恐慌が始まり、経済パニックとなり、直方の鉄工界も大不景気となっていた。その余波で、従弟2〜3人抱えた家業の鍛冶屋も開店休業、アメ玉をつくったり、アイスキャンデー屋をやったりしたが皆失敗した。
吉太郎氏
吉太郎氏

 毎月の学校の月謝は滞りがちで、月末になると学校の塗板の隅に月謝未納者の名前が書き出され、私は、いつも常連。登校する気になれず欠席が多くなり、遂に1年留年した。
 私は学校を辞めるつもりだったが、榎本先生や父に説得され再度1年生をやった。実は先生もその年から検定試験を受けられて、鞍中の先生に昇任されたそうで奇しくも又一緒になった次第である。
 どうやらこうやら5年生になった。そして5月は修学旅行である。参加100名は朝鮮鴨緑江を渡り、満州の安東県まで行ったそうだ。と言ったが、私は参加していない。旅行に行ける家計ではなかった。父は旅行積立金がかえってくるのを首を長くして待っていたのである。私の家の前に川原諸式店があり、そこに米代が一俵近くも滞っていたので、それに直ぐ廻された。
 今思えば、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とてもじゃないが、行ける所ではない。残念だがその当時は別になんともなく、むしろ家計の足しになったのを喜んだくらいだった。
 子供の博俊、剛、有、又孫たちが集まった時など、私が晩酌で興に至れば若いころの修学旅行の話等を持ち出すが時代のずれ、如何ともしがたい。
「ホラ、又おじいちゃんの米一俵が始まった。」
と皆笑って逃げ出す始末である。
鞍手中学同盟休校事件
花は野辺に咲きみちて春の心地ちす
湖にうつる緑は常磐の色よ
今宵の花嫁はよい花嫁
いつ迄もみどり色こく
あれ鐘が鳴る

 やがて、多感な時代を迎え、床下の高い校舎の下にもぐりこみ、隠れ弁当をつつきながら、蛮声をはり上げて唄ったなつかしい一時代、今もはっきり覚えている。
 6月28日、その時、私は放課後の掃除当番で机をガタガタ、雑巾がけしたりしていた。
 「コラッ、内藤、何んしよるか、来い。」
 「皆んな行きよるぞ、来いや。」
 「どこに行くとか、何んかあったとか?」
 「来りゃわかる、来い。」
 声をかけたのは田代君だ。二島君もいたかな。私は、彼達に親しみを持っていたのと、持ち前の物見高さ、物好きが加わって、のこのこついていったものである。
 私の鞍手中学校同盟休校事件参加はこんな恰好で始まった御館山に1時集合、夜は市内中泉の加来君?の家へ移動したらしい。途中がはっきりしない。
 「誰か飯を炊っきらんか。」
の声がしたので何となくその役を買って出、一斗釜に米をしこみ、水加減をして炊いた、うまくできたので喜んだものだ。場所を変えた翌日のどこか?、のお寺で父兄との対話。三つ目の場面がどうしてもつながらない。記憶にないのが残念だ。
 人、それぞれに卒業後散りじりになり、どんな方向に進んだろうか。
昭和19年英彦山にて(右端が研一氏)
昭和19年英彦山にて(右端が研一氏)

年期奉公
 昭和2年の春、どうやら卒業して2〜3ヶ月ぶらぶら代用教員にでもなろうと思い、本2冊買ってきて勉強しだした。前の川原の「義っしゃん」から勧められたからである。然し、父は期するところがあったのか、昭和2年4月、私を無理に門前町の柴田鉄工所に年期として入所させた。中学を出て年期に行かんでもと人々は言ったが、然し、これが後の鍛造業経営の基礎になろうとは夢にも思っていなかった。
 フイゴでやっている父の工場に比べ弟弟子の柴田さんのところは、ベルトハンマー2台が据えてあった。「朝は朝星、夜は夜星」といわれるが、文字通り朝は7時、夜は9時、日の出から日没まで、当時、時間の制限はなかった。休みは月2回、1日と15日、日給72銭 、とにかくよく働いたものだ。
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