直方鉄工協同組合
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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
昭和・戦後篇 第四節/直方鉄工青年会
1.直方鉄工青年会の誕生
 昭和三十五年頃、直方鉄工界の元老格の人たちの間で、鉄工界の諸問題について自由に意見を交換するための親睦会をつくろうという話がもちあがり、当時の直方鉄工協同組合理事長西尾善恵氏が幹事役となり、佐田徳一、飯野憲一郎、小野原己三、大田三郎、隈井源一郎、福島正雄、石橋清一の各氏をメンバーとする「工友会」が誕生しました。
 工友会のメンバーは定期的に集まって、種々の問題について話し合い、また、直方鉄工協同組合に対しても、色々な助言をしました。
 昭和三十九年、工友会は、直方鉄工界の二世―次代を担う若者たちの意見を聞くために、工友会と若い人たちとの交流会を計画しました。席上、色々な意見が交換されましたが、工友会のメンバーの助言もあって、今後若い世代が定期的に集まって勉強しようということになり、これが実を結び、直方鉄工青年会が生まれました。
 このときの経緯について、工友会がわの西尾氏は、「親爺の下で工場経営の修業をしている第二世の人達の考えを聞く機会を持ってはどうか……ということで、市内の工場の若い方々十数名に集まってもらって、親爺さんから『炭坑との取引の昔話』を、青年の方からは『現在と将来に対する理想や理念等について』の話を交わし、その席上、自分達若い工場経営者同志が、鉄工業界の転換期に対処するために、若さと新しい感覚で研鑽努力すべきであるという決意のもと、直方鉄工青年会が結成され……(鉄工青年会10周年記念誌)」と書いていますし、また、鉄工青年会がわの弘幸泰(第十代会長)さんは、「設立の発端はと申しますと、直方鉄工界の元老格、『工友会』の方々から"近頃、時代推移のテンポが速く、若いもんとの間にズレを感じる。一つ若者の意見を聞いてみよう"といわれ、身近な十数名が会合をもったわけで、当時、鉄工界の若い二世達は、それこそ真黒になって、限られた範囲の中で孤軍奮闘していた時代で、責任ある地位におかれ、従業員からはつき上げられ、上からは押さえられ、うっぷん晴し場を求めていた、鉄工業界のいわゆる埋もれた存在だったので、早速前記十数名が核となり、志を同じうする鉄工界の若手が相集い、九月の創立総会へとこぎつけた(10周年記念誌)」と述べています。
工友会のメンバー 前列左より 福島、大田、飯野 後列左より 西尾、佐田、隈井、小野原
工友会のメンバー 後列左より 西尾、佐田、隈井、小野原
前列左より 福島、大田、飯野
 このような経過で、昭和三十九年九月十五日、直方鉄工青年会が発足しました。しかしながら、工友会のサゼッションで誕生した鉄工青年会ではありましたが、いざ出来あがってみると、現役の大人たちの反応は必ずしも肯定的ではなく、風当たりのかなり強いものでした。
 直方鉄工協同組合の元理事長弘貞利氏は、その時の様子を、「思えば十年前、せがれ達が集って、青年会を創るという話を聞いたのが、ちょうど直方鉄工協同組合の創立六十五周年記念式典のあった前後だったと思います。当時の理事長、故高原氏が病気療養中で、私と直方歯車の佐田氏と二人、副理事長制で組合の運営をやっていた年です……正直なはなし、私を含め当時の鉄工組合役員の殆どは、青年会設立には必ずしも賛成してなかったのではないでしょうか。日く!鉄工組合があるのに、なぜ別に会を作らねばならぬか。若いもんがただ集まって、偉そうにしゃべるだけで何ができる。からだでおぼえにゃ……云々、といったような陰口だったようです(10周年記念誌)」と、書いています。
 また、現副理事長佐田政一氏は、鉄工青年会発足当時の副理事長として、鉄工青年会の誕生について、次の様な手記を寄せています。
 「私が協同組合の理事に就任したのは昭和二十八年、三十八歳で一番若い理事でした。改選のたびに出て来られる理事さんは私よりもちろん年上で、就任されても一度か二度、理事会に出席されるだけで任期中欠席されどうしの方もおられ、これでは数年先には理事の断層が出来るのではないかと心配していました。ちょうどその時、青年会の話が出て来てこれを理事の養成機関にもって来るのにちょうどよいと思いました」手記はさらに、鉄工青年会発足当日の様子について、「創立総会の日は、協同組合の定例の理事会の日でしたが、理事長の高原彦三郎氏が病気のため欠席でしたので、当時私が副理事長をさせていただいたので議長席につき会議をすすめていましたが、今は亡きある理事さんから『佐田君、二階の会場で、若い者が多く集って何か会をつくる様な話だが知っているか』との発言で、私はもちろん此の青年会をつくる事の賛成者の一人でありましたが、『話は聞いていますが、個人の佐田にあったのか、副理事長の私にあったのか、はっきりしませんでしたので、皆様に報告しませんでした……』と苦しい答弁でその場を終わらせて、一応理事会を閉会して、二階の大会場で催されていた青年会の創立総会に御祝儀金一封を持って参加しました。私にとって暑い永い理事会でした」と書かれています。
 このように、発足当時は必ずしも祝福されなかった青年会ではありましたが、若者たちの決意は固く、新しい時代感覚で、直方鉄工界の明日を考えながら着実に前進し、一年後の直方鉄工青年会は大人たちの目をみはらせるように成長していました。
 先に紹介した昭和四十年九月の西日本新聞の「曲がりかどの直方鉄工界」という特集は、一年経った直方鉄工青年会について、「経営返代化に本腰―元老の頭の切り替え成功」というタイトルで次のように紹介しました。
 「『直方鉄工界の未来を開こう』と、直方市内で鉄工所を経営している若い人たちが集まり、直方鉄工協同組合の内部団体として"直方鉄工青年会"を結成したのは、ちょうど一年前の昨年九月十五日、おりからの不況のアラシで、直方鉄工界の大部分が大きくゆらいでいるのを『なんとかしなければ』と話し合い、経営の近代化のために立ち上がった。
 ○……会の目的は@鉄工事業経営にかんする研究、調査、修練A会員相互の連携、親ぼく、啓発B地域社会への貢献、の三つ。現在、会員数は四十四歳の村井博さん(村井工業専務)を会長に、二十歳以上、四十六歳までの三十九人。直方鉄工界の"親衛隊"として、毎月一回の例会のほか、忙しい仕事の合い間をみては『オイ、集まれ』と招集をかけ、研究に調査に熱心な活動をつづけている。
 過去一年、この"若き親衛隊"たちの活躍はめざましかった。青年会結成当時、直方の鉄工業者のなかには北九州の連鎖倒産の影響で打撃を受けた業者がかなりあった。このため、青年会は"連鎖倒産防止にかんする陳情書"をつくり、関係官庁をはじめ金融機関などに"切り込み"をかけた。政府は、設備近代化、産炭地振興、体質改善などというお題目をとなえているが、まじめに働いている中小企業が"あおり"をくって倒れてゆくのを防いでほしいというのである。
 ○……このあと、青年会が本格的に取り組んだのは、鉄工経営者たちの"頭の切り替え"を促すことだった。"二代め"といわれる若い経営者たちのなかにも、父親の経営方針に、だまって従ってゆけばよいという型の者が多かった。このため結成当時の会員十八人が、まず"元老"たちに従属的だった若手を『社会情勢がこんなに変わってきているのに鉄工界だけがこのままではいけない』と入会をすすめ、会員をふやした。そして、ことし四月改選された直方鉄工協同組合(弘貞利理事長、組合員八十八人)の役員(理事長、副理事長を含め十八人)として、村井会長ら会員四人を理事に送り込んだ。青年会員同士で学びとった新しい経営感覚を、こんどは、鉄工界の"元老"たちが実権を握っている組合で反映させようというのである。
 ○……いま、青年会員たちは、しだいに元老たちの頭の切り替えにも成功しつつある。青年会結成の動きを聞いた元老たちから『おまえたちは組合内で"ムホン"を起こす気か』と誤解されたこともあったが、いまでは『若い者もいいことをいう』と感心され、意見をよく聞いてもらえるまでにこぎつけた。とくに青年会が、中泉工場団地の利用法として提案した@鋳造工場集団化による鋳物原料の原価切り下げA零細企業のアパート式近代化B共同受注のために工場のグループ移転C既設工場はそのままにして、新製品開発のための集団工場建設、などの案に組合全体が、その検討に本腰を入れている。
 ○……青年会が、これまで行なってきたのは"親方"である鉄工協同組合への提案だけではない。青年会独自でやれることは、よいと思ったらどしどし実行に移している。直方と同じ性格を持つ鉄工の町桑名(三重県)にはすでに見学に行ったし、こんどは鋳物の町川口(埼玉県)に行って工場集団化の研究をしてきたいという。しかし青年会員たちが熱を入れているのは、青年会活動の裏付けになる基金づくり。自分たちのこづかいなどを節約して、個人名義ではあるが、毎月一人一万円ずつを"青年会基金"として銀行預金をしている。ことし四月から始めたが、すでに百五十万円たまった。いまのところ、基金をなにに使おうという目的はなく、三―五年後に『みんなで使い方を考えよう』と話し合っているが、金ができたら直方の鉄工界が持たないような新しい工作機械を 購入して、鉄工直方の発展に役立てようという構想だ」

2.直方鉄工青年会の歩み
 その後、直方鉄工青年会は順調に発展をつづけ、昭和四十九年には十周年を、五十四年には十五周年を迎えましたが、その間の歩みを、鉄工青年会の会報「瑞雲」の「10周年記念誌」および「15周年記念誌」からひろってみましょう。

昭和四十年
 二月、坂口市議会産炭地域振興委員長の話を聞く。三月、安川電機八幡工場、三井工作所を見学。九月、直方鉱業試験場長を招き、直方鉄工再建計画、集団化、協業化問題を協議する。
昭和四十一年
 十月、山崎鉄工所(名古屋)、大阪機工(大阪)を見学。
昭和四十二年
 三月、通産局吉田商工部長を囲む懇談会を開く。六月、直方鉄工青年会の会報「瑞雲」第一号発刊される。

 < かねて、村井会長が「会報を出そう」と強調していたが、一年、二年と実現しなかった。それが四十二年六月に一号発刊。担当したのは、大三郎(飯野)さんと伊藤清治さん。「吾等のテナー清ちゃん」は、直方に帰って日が浅く、設計の事で長期出張など多忙だった。専ら大三郎さんがかけずり廻った。ご存知の通り、グズグズするのは性に合わない方で、いつも私の都合など眼中になく、パァッと車で来て「さあ渡辺さんを訪問しよう」「二号は八月に出す」と同行させられた。訪問先でメモをとって、帰ってまとめるのだがこれがまた早い。もっとも最後は「コレデヨカ」ジ・エンド。二号は八月発刊した。「瑞雲」は大三郎さんの命名です。(第三代会長大田正男氏の回想記より) >
昭和四十三年
 八月、唐津金属工業部青年会メンバー直方を訪問。懇親会を開く。
直方鉄工青年会の会報「瑞雲」創刊号
直方鉄工青年会の会報「瑞雲」創刊号
 < わが鉄工青年会も創立後三カ年を経て、対外的にも漸くその存在を知られるようになり、唐津鉄工青年会から「炭鉱閉山による苦境を乗りこえた鉄工の町、直方を蘇生させた直方鉄工青年会」の有りのままの姿を見学させてほしいとの事で、唐津から約二十名の方々が来直、正午から夜八時に至るまで、市内の各工場見学やら我々青年会の会合、討議のあり方を熱心に視察勉強して、非常に感銘深げに帰っていかれたのですが、そのように他人から見てもらうとなれば、それにふさわしい実績を挙げるべく努力する気持になるので、唐津鉄工青年会のような見学の仕方も双方にとって、甚だ有意義であると、私、感じた次第です(第四代会長飯野精一郎氏の回想記より) >
十月、鉄工組合主催、鉄工青年会協賛による第一回秋季大運動会が開かれた。

昭和四十四年
 九月、九州機械金属工業技術センターを見学。十月、第二回秋季大動会開かる。

昭和四十五年
 二月、福銀支店長、三井工作社長を招いて例会をもつ。四月、鉄工青年会の組織を委員会制とする。

 < 第一にあげる事は、委員会制度を制定したことでしょう。それまでは選ばれた幹事によって全体的に会が運営されていましたが、会の末端までこまかく趣旨が徹しないように感じられたので、この制度をとったわけで、以後現在まで続いていますが結果的には成功したことの一つと自負しています(第六代会長 佐田正兼氏の回想記より) >

 六月、直方市首脳部を囲む懇談会を開く。十月、直方鉄工青年会の歌決まる(飯野大三郎作詞、伊田三千代作曲)

直方鉄工青年会の歌
一、 福智の山が 呼ぶ朝に
心は躍る 気もはずむ
若き世代を 担うもの
集う我等は 鉄工青年会
二、 未来を夢見 幸せを
求めて尽きぬ 心意気
苦しき道も 耐えしのぶ
進む我等は 鉄工青年会
三、 時代はうつり 時は去り
力をあわせ はげみゆく
明るき筑豊に 光さす
ああ我等は 鉄工青年会

昭和四十六年
 六月、直鞍地区の中学就職係の先生、職安の職員を招待し、求人懇談会を開く。八月、各会社の中堅社員を招き懇談会をもつ。十月、直方専修職業訓練校を見学する。

昭和四十八年
 九月、鉄工青年会、韓国の工場を視察する。

 < 板付空港タラップを上り、我が国を後にして一路韓国に向かった。いろいろな陸、海、眼下の景色は実に素晴しかった。釜山飛行場に着いたトタン、気持が張りつめた。外国に来たという気持、税関手続、緊張の連続! 税関のトラブル無事終了、安心。ホテルにつき、明日の日程を聞き、全員飛行機の疲れ、外国に来た疲労……安眠する。一夜あけ、釜山工場見学。工場の内に入ると実にびっくりする。人海工場というほかはない。一人一人のその目、態度、行動、実に素晴しい。働く意欲的な感じ、祖国再建と云う力が心の底から湧くのがヒシヒシと判る。特に、一少年(十五歳〜十六歳)の姿を見た時思わず目頭に一すじの涙がでた。実に何とも云えない気持だった。我々日本は素晴しい国と思う。二日目、京城(ソウル)世宗ホテル、びっくりするような高層ビル、韓国の建設業界も実に素晴しい。また、一面中心街と市外地との差を見たとき、心淋しい思いがした。釜山、ソウル、夜の調べが見事だ。韓国工場見学結果、会員は心の中に刻んでおこう(第九代会長若林武己氏の回想記より) >

昭和四十九年
 二月、鉄工組合理事との懇談会を開く。九月、直方鉄工青年会創立十周年を迎え、記念式典を行ない、「瑞雲・10周年記念誌」を発刊する。この年度より正会員の年齢上限を五十歳から四十五歳にさげる。
 < この年齢制限を引き下げた理由としても、種々の理由がありましたが、最も重要というか決め手となった点は、どうしても年長者が会の運営について、リーダーシップをとるので、創立時、工友会の先輩方の言われた、所謂、「若いもん」のイメージから遠ざかる気風になりかねないので、会員の中から自然発生的に年齢問題が採り上げられるようになったものと思われます。しかし、今になっても判然としない事は、採決時における若い人達に多かった反対意見であります。可決されて五年経過した現在、若い人達ばかりの青年会の活躍ぶりを見る時に、年齢を四十五歳に制限した事は間違ってなかったと、大いに自負している次第です。(第十代会長弘幸泰氏の回想記より) >

昭和五十四年
 一月、村井鉄工組合理事長、黄綬褒章を受けられる。

 特に記憶に残った思い出の
 < 第一は、我々の大先輩、村井理事長の黄綬褒章の叙勲祝賀会の開催でした。昭和五十四年一月二十六日、陵江会館に於いて盛大に挙行した訳ですが、組合先輩諸氏を始め、我我青年会も一役買って出て各々の設営準備ほか分担を作って、スムーズに式典を終了させる事が出来、その活動ぶりに各方面からのお褒めの言葉を頂いた次第です。この様な大祝賀会が私の任期中に行なわれた事は全く光栄の至りであり、一生の思い出となる事でしょう。今でも、あの時の理事長御夫婦の幸せそうな姿が目に浮かんできます。理事長、おめでとうございました、(第十四代会長山本忠志氏の回想記より) >

村井理事長 受章祝賀会
村井理事長 受章祝賀会
 四月、直方市長選挙で鉄工青年会推薦の有馬直和氏が当選する。

 < 二つ目の出来事として、今だ余韻さめやらぬ地方選挙での思い出があります。私は、当初は選挙にはノータッチの主義でしたが、会員皆様方の熱気あふるるムードに押され、とうとう内藤現会長(第十五代)と共に先頭に立ち、鉄工の歴史いや直方の歴史に残る大選挙戦を懸命に闘ったのであります。過去に鉄工業界がかくも団結し、結束した事があったでしょうか。その結集した偉大な力には、周囲の人達も新たな目で鉄工界を注目したのは、皆様方ご承知の通りであります(第十四代会長山本忠志氏の回想記より) >

 十月、直方鉄工青年会創立十五周年を祝して、記念式典を行ない、「瑞雲・15周年記念誌を発刊する。

 < 歴代の会長中心に、若い英知を結集して、青年経済人として研鑚に励み、直方鉄工界の一翼を担うべく、若いエネルギーを注ぎこんでまいりました。現在では、会員五十名、OB二十五名が、行政への提言、地域社会行事への参画、他業種青年団体との交流や共同事業等、地域社会にアピールする青年団体として発展してきました。またその責任の重大さを痛感している次第でございます。この間、直方鉄工協同組合の理事長を始め、理事の方々、諸先輩、関係諸官庁、諸青年団体の皆さんのご援助、ご指導が大であったことを、私達は忘れてはなりません。この記念式典を契機に、私達は次なる二十周年を目指して、直方鉄工界のため、地域社会のため、より一層精進を重ねる覚悟でございます(第十五代会長内藤博俊氏の十五周年記念式典での挨拶より) >

「瑞雲」15周年記念号
「瑞雲」15周年記念号
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