直方鉄工協同組合
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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
大正篇 第一節/第一次世界大戦の明暗
 直方鉄工同業組合は、大正五年、直方鉄工業組合へ改組されましたが、この変革を促した要因が二つありました。一つは工場法の制定、今一つは第一次世界大戦の勃発でした。
 日露戦争後の明治末期を不況のうちに送った直方鉄工同業組合は、大正期に入り、内外の要因に触発されながら、直方鉄工業組合へと脱皮し、第一次世界大戦の戦中、戦後の光と蔭の中を歩いていったのでした。
 工場法と第一次世界大戦、大正期の直方鉄工界を左右した二つの要因は次のようなものでした。
1.第一次世界大戦の勃発
 一八七〇年代から激化したヨーロッパ諸国の植民地獲得闘争は、ドイツとイギリスの間で最も先鋭化しました。
日本、第一次世界大戦に参加
日本、第一次世界大戦に参加

 ドイツはオーストリア・ハンガリー、イタリアと三国同盟を結んでバルカン半島進出をはかり、イギリスはフランス、ロシアと三国協商をつくり、ドイツを包囲する態勢をつくりました。
 大正三年六月、オーストリア皇太子がセルビア人によって暗殺されるという事件がおこり、これが口火となって、三国同盟側と三国協商側との全面的な戦争(第一次世界大戦)が起こりました。
 日本はイギリスの要請に従って参戦、青島などでドイツとの戦闘に入りました。
 この戦争によって日本経済は様々な影響を受けました。
 大戦勃発の当初は、「世界経済の中心であったイギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国の経済は一時麻痺状態におちいった。為替相場は混乱し、海上航路の不安とからんで取引きは停止状態になった。ヨーロッパの主戦場から遠く離れていた日本の経済も、さまざまな悪影響をまぬかれなかった。ヨーロッパむけの輸出産業は滞貨の増大・価格の低落に苦しみ、原料資材をヨーロッパからの輸入にあおぐ産業は、輸入品の品薄と値上がりで打撃をうけた」(中央公論社版世界の歴史23)のでした。
 しかし、翌年(大正四年)の中頃から、日本経済は好転しはじめました。イギリス、ロシアヘの軍需品の輸出や戦争景気に湧くアメリカヘの生糸の輸出が増大し、ヨーロッパ諸国の商品にかわって、日本の商品が中国、インド、東南アジア、オーストラリア、南米などの市場に進出するなど、図Vにみられるように、輸出、輸入、工業生産ともに年を追って飛躍的に増大していきました。
表U 大正期送炭高の推移(筑豊)
各年次共3月の実績(単位はトン)
年 月 送炭総高
大正3年3月 910,215
大正4年3月 734,376
大正5年3月 788,500
大正6年3月 929,910
大正7年3月 935,728
大正8年3月 1,025,161
大正9年3月 1,028,693
大正10年3月 852,877
大正11年3月 907,604
大正12年3月 1,011,539

 この状況は、ただちに石炭産業に波及しました。表U、図Wは、図Vと連動した筑豊の石炭産業の好況を伝えるものです。
 石炭産業の好況は、すぐ直方鉄工界に反映し、受注の増大、工場数の増加となってあらわれたのでした。
 明治三十三年に発足した、親睦、相互扶助中心の「直方鉄工同業組合」は、時代の激変を前に、ようやく改革を迫られることになったのです。大戦好況の受け皿として、近代的な対応のできる組合への変革の時期を迎えたのです。

図V 経済・貿易の発展
  (大正3年を100とする指数)
図W 大正期炭価の推移
  (若松港沈没炭売却入札価格=普通炭1万斤当り)
図V 経済・貿易の発展 図W 大正期炭価の推移

2.工場法の制定
 工場法というのは、国が労働条件を規制するために作った法律で、主として、女子および年少労働者の保護を目的としています。
 最初の工場法は一八〇二年イギリスで作られました。
 日本では明治十四年(一八八一年)に官僚の手によってはじめて工場法の立法が企てられ、日清戦争(明治二十七、八年)以後は毎年計画が立てられましたが、資本の蓄積を急ぐ繊維資本家などの激しい反対にあって失敗、明治四十四年に法律第四十六号として、ようやく工場法が議会を通過し、大正五年に施行されました。
 内容は適用工場の規定、就業年齢の制限、就業時間の制限、工場設備安全規定、徒弟制、雇用規定その他となっていました。
 この工場法の施行により、直方の鉄工所は色々な対応―近代化への脱皮を迫られることになりました。

3.直方鉄工業組合の発足
 大正五年、飯野瀧造、田才龍平、福田三平、伊勢田彦丸の諸氏が発起人となり、組合改組の準備を進め、直方鉄工同業組合は発展的に解消し直方鉄工業組合が誕生しました。
 直方鉄工業組合は、
 @鉄工材料の共同購入、および製品販売の斡旋
 A鉄工技術の研究
 B先進工業都市の視察などをふくむ各種状況調査
 C一般法規に関する手続の研究
 D優良従業員、永年勤続者の表彰
 E職工の慰安
 F転業者の斡旋
 など、明確な目的を持って発足し、明らかに、親睦を目的とした前の直方鉄工同業組合と一線を画するもので、はじめて直方に近代的な工業組合が誕生したことになります。
 初代組合長は飯野瀧造氏、副組合長は田才龍平氏、専任書記堀江積氏でした。
 組合事務所は直方町役場(南多賀町六三二)の中におかれましたが、後、大正七年には商工会内に移されました。

4.大戦による直方鉄工界の繁栄
 第一次世界大戦は、日本経済に空前の好況をもたらし(図V参照)、それが筑豊の炭鉱界に波及(表U、図W参照)、直方鉄工界も湧きました。
 表Vはそれを端的に伝えています。すなわち、大正四年の二十七工場が、大正六年には七十三工場(二・七倍)となり、これが大戦後の大正十年まで持続しましたし、年産額にいたっては、大正四年の三十五万四千円から、大正九年の二百二十三万五千円へと一挙に六・三倍に飛躍したのでした。
 勿論、年産額の増大は、大戦による石炭需要の増大が最大の原因ですが、高い水準の生産力を支えたものは、大正三年から始まった動力用電力の供給でした。それまでは、工作機械などは、ダライ廻しという言葉に残っているように手まわしであったし、鋳物用の送風機も手でまわしていたのですが、電動機の導入によって、生産能率がグングン上昇したのでした。
 その好況について、「直方鉄工65年史 草稿」は、
 「大正三年に欧州大戦乱が起こり、戦火はしだいに延びて全欧州を席巻した。わが国にとっては“対岸の火災”で石炭の輸出量はにわかに激増、そのため筑豊炭田の景気は物凄く、石炭増産用機械器具の発注が筑豊のヤマヤマから直方鉄工業界に殺到して、各工場はその製作に追われ、工場数も次第に増えて、大正八年には七十三工場、年産額二百二十一万六千円、同九年には年産額二百二十三万五千円に達する盛況を招来し、従業員数も一千人を突破。生産品は地もと筑豊から朝鮮、台湾、満州へ販路を伸ばして“鉄工直方”の名声を海外にまで高めるに至った」
 と、述べています。
 また、「直方市史下巻」の年表の大正七年の欄には、「この年、直方税務所管内の戦時利得徴収額二四万五千一七四円、納入者九三人、うち一〇万円以上は麻生太賀吉・中野昇・中島徳松等いずれも炭坑主・鉄工業者で占める」とあり、その盛況を伝えています。
表V 直方の鉄工場数とその年産額
(「鉄工55年史 草稿」による)
社会の動き 年 号 工 場 数 生 産 額
7月 第一次世界大戦はじまる 大正3年    
  大正4年 27 354,000円
  大正5年 43 527,000円
  大正6年 73 1,386,000円
8月 米騒動
11月 第一次世界大戦おわる
大正7年 73 1,568,000円
  大正8年 73 2,216,000円
3月 日本の戦後恐慌はじまる 大正9年 73 2,235,000円
   財界パニック 大正10年 73 1,392,000円
  大正11年 68 1,244,000円
9月 関東大震災おこる 大正12年 68 1,011,000円
  大正13年 68 1,007,000円
  大正14年 67 1,004,000円
  大正15年
昭和1年
67 818,000円
3月 金融恐慌 昭和2年 54 863,000円
  昭和3年 54 1,083,000円
   世界恐慌はじまる 昭和4年 54 1,143,000円

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