直方鉄工協同組合
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直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕
明治篇:第二節/直方鉄工界の夜明け
1.二件の鍛冶屋
直方鉄工65年史(美濃部)草稿
直方鉄工65年史(美濃部)草稿

 筑豊炭田の夜明けに対応するように、明治十牛代から直方の町にも、次々に鉄工場が生まれてきました。
 もちろん、それまでにも鉄工場に先駆する形で鍛冶屋があったことは記録されています。「直方鉄工65年史(美濃部)草稿」によれば、「明冶十年、かの西南の戦役がおさまってからまもなく、市内南多賀町(今の川村商店あたり)と原田町(今の福場商店あたり)に、ニ軒の鍛冶屋が開業して、当時山部の御館山、側筒谷(ソバツタニ)(西校前後)、新入の松芳あたりで石炭のタヌキ掘りをしていた小ヤマに使うつるばしや掻き板などの製作、修繕をしていた」ということです。
2.「福岡県地理全誌」にあらわれた工人
 また、それ以前の状況を知る資料として、「直方市史下巻」に次のような記述がみられます。
 明治八年ごろ作成された「福岡県地理全誌」によると、当時工業にたずさわる人を工人と称していた。本市地域の数は次のように記録されている。
 直方町一二九人(うち女十二人。以下同じ)、山部村二〇人(一人)、上新入村十六人(四人)、下新入村九人、知古村一人、感田村一二人、頓野村八人、上頓野村二〇人、畑村五人、永満寺村九人、中泉村三人(一人)、植木村五四人(一七人)、計二八六人(三六人)、(上・下境村は不明)。これらの人数は世帯主と家族の合計人数であるため営業戸数は分明しない。
 当時の工人営業の内容を知る資料として、中島文書(明治五年)の「面役調帳」がある。これは山部村内の分であるが、この中から工人と考えられる職業の戸数を拾ってみると鍛冶(かじ)二、大工二、船大工四、桶(おけ)職一、計九。これらの戸数の男家族十三人を合算すると二二人となる。「福岡県地理全誌」にある一九入と近い数なので、工人とはこのような職業の人たちと考えられる。
 山部村の場合は、遠賀川の舟着場があるため、川船関係の仕事を主としていたものである。当時は山部村内に炭坑はあったが、まだ需要先にはなっていなかったものと恩われる。このように農鍛冶的な存在でしかなかった直方に鍛冶屋から鉄工所へと発展していくためには石炭鉱業の進展をまたなければならならなかった。
3. 加藤鉄工場の誕生
 直方における最初の鉄工場は、明治十二年に下境の日焼にできた加藤鉄工場(加藤政吉)でした。中泉、藤棚、野猿谷あたりに点在した小ヤマ相手の火造り工場で、幼稚ながらも一応形が整っており、これが直方で”鉄工場”と称するものの第一号であったといわれています。
 直方市下境の許斐清照氏が所有されている許斐鷹介関係の文書の中には、明治二十六年の新手炭坑の判取帳(炭坑が取引先に支払った金銭の頷収証つづり)があり、加藤鉄工場の加藤政吉のサインおよび下境加藤鉄工場の印鑑が残っておりますし、そのほかにも、中村鉄工場、福島鉄工場などの名前が見られ、鉄工史研究の上で面白い資料ということができます。
明治26年新手炭鉱判取帳 加藤鉄工場 加藤政吉のサイン 加藤鉄工場の印鑑
明治26年新手炭鉱判取帳

加藤鉄工場 加藤政吉のサイン

加藤鉄工場の印鑑

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